理想について

備忘録

数学・物理学・経済学の学問的真理性について

物理学と経済学が真理の体系としてまったく異なったものであるということは自分の中ではあまりに自明であったが見るところ一般的にはそうでもなさそうなので,文章に残しておくことにした.

真偽の二元論からなる真理体系は「である(でない)」「ならば」のみからなる

まず,議論を明確化するために「真理」を定義する.

真理とは,真であるか偽であるかどちらかが定まるもの,すなわち命題のうち,いついかなる状況でも真であるものである.

例えば「かもしれない」という言明は真理には含めない.もちろん,確率に「確率とはーである」と定義し,確率という概念にかもしれないを割り当て(例えば,「Aかもしれない」を確率1/2でAであると定義する)ることで,「かもしれない-である」というようにであるに帰着させることは可能だ.

 

そして,形式論理の用語で「かつ」や「または」というものがあるが,これらは「である,でない」と「ならば」のみから定義できる.具体的には

「AまたはB」は「AでないならばB」と同値.

「AかつB」は「(AならばBでない)でない」と同値.

なのである.つまり,形式論理を使った体系としては,「である」で構成されているか「ならば」で構成されているか,あるいは両方で構成されているか,を考えるので十分なのである.

ここで形式論理を暗黙に使っていることに疑問を感じる人もいるだろう.その通り,本稿での主張は形式論理の体系で真理を理解することを暗黙の了解としている.なぜなら形式論理は自己言及が可能な体系だからだ.すなわち「形式論理を体系として認めるならば」の「ならば」が,形式論理を認めないとそもそも定義できないのである.ただし採用する公理系が古典論理である必要はない.

 

そして自己言及ができない真理体系も無数に存在すると述べておく.あくまで本稿で問いたいのは「学問的真理」についてであるが,「芸術的真理」もっというと「諫山創的真理」などというのも存在するのである.私としては,あらゆる真理体系を包含する「真理のアウラ」が存在するように思えてならない.(あまりにも脱線しているので補足にしておきたいところだが,私にとっては自分の思想的基盤に関わる重大なことなのでここで言っておいた)

数学は公理と演繹の体系である

数学は明らかに公理と演繹の体系である.つまり「ならば」のみからなる体系である(公理は仮定にすぎず真理ではないからだ).公理が正しいならばこの定理が成り立つ,と言った具合にだ.

「定理の体系」ではない,というのは重要かもしれない.定理というものは人間がその重要性を認識しやすい演繹的結論に名前を与えたものに過ぎない.本質的に数学を構成している要素は証明だけなのである.例えば,証明がある程度長い定理には,補題がつく.そのとき,定理自体は非常に直観的かつ自明な重要性を持ち,定理を証明するために必要とされる補題は,非直観的,あるいは重要性がわかりにくい場合が多い.その区別は人間が見た時にわかりやすいかわかりにくいかの違いでしかなく,さらに補題をいくつかの補題に分割することを考えよう.この分割を繰り返すと単純な公理とならば型の論理式の積み重ねに過ぎなかったことに気づく.定理よりもむしろ定理を構成する証明の各文が数学の構成要素だと言えるのだ.

これを踏まえ,今後はこのタイプの学問体系を「ならば型」あるいは数学的体系と呼ぶことにする.

物理学は「である」の体系である

以下の形式論理による推論は物理学の根幹を形成する.

①Aである.

②AならばBである.

③Bである.

①と②という真理から③という新たな「である」を導くわけだ.記号で簡明に表すと,

A

A⇒B

B

そして,物理学のほとんどは②によって構成され,①は数少ない原理のみである.だが得られる結論のほとんどはB,すなわち物理学は「である」型の体系である.正確にいうとならばandであるの体系だが,ここまでで「である」の強力さはわかるだろうから,「である」型で伝わると思う.

①と②の重要な違い.それは②が数学からアプリオリに手に入る(数学がならば体系であると先にみた)一方で,①が観察無しには手に入らない,という違いである.そして物理学は①のうち公理よりも世界の方を重視する.これは当然で,物理学の目的が物理世界の把握であるから(そしてそれが真理性を定めているから),その物理世界を観察して理論と合致しなければ理論の方を棄却しなければならないからだ.これが物理学がならば型たる所以といえる.

 

経済学って、ナニ。

理論経済学

事実解明的(positive)経済学

事実解明的理論経済学は,紛れもなく「ならば型」数学的体系である.例えば,各経済人が財に対して全順序を有していると仮定しよう,これを選好と名付け,全順序な選好が連続性という公理を満たしていると仮定しよう,ならば効用関数が定義できる,では各人の消費可能な財がワルラス予算線に含まれると仮定しよう,また効用を最大化していると仮定しよう,ならばこういう定理を満たす需要関数が定義される...といった調子である.長くなりすぎたが,要するに理論経済学は原理すらも持っておらず,いや,持とうとしておらず,すべては公理から出発する.これは数学的体系に他ならない.

規範的(normative)経済学

規範的経済学はほぼ事実解明的経済学と同じ方法論だが,「〜すべき-である」という言明にはそれ固有の問題がついてくる.(長くなるし完全に自分の中で理解が確定しているわけではないのでまた別の機会に)

実証経済学

実証経済学の本質的枠組みは,観察や直観から得られたAであるという「原理」をもとに数学を使って演繹してBという結論を得る,という流れである.ここまでは物理と一緒だが,まったく別の観察はBを否定するものだった,というパターンが往々にしてある(往々にして,どころか人間を扱っている以上確実にそうである).これに対して実証経済学は2つのやり方で説明を試みる.

  1. 観察あるいは直観Aを否定する.具体的には,観察したデータ以外のもので,より本質的なものを見落としていたから,それを追加して原理を修正する,という方向性.
  2. 観察Bを否定する.具体的には,Aという原理は正当であるし,ゆえにそこから導かれた結論Bも正当である.しかし人間を取り扱っている以上AもBも確率的な結論である.したがって,観察Bは「外れ値」だと主張する,という方向性.
  3. 理論を修正する.(ここが理論経済学との連絡通路)

経済学は2の方向性を採用する場合が多く,これが経済学が特定のイデオロギーを土台にした学問となる所以である.ここでは多少観察と理論的結論に齟齬があっても理論(とそれの基礎をなす直観)の方を放棄はしない.その齟齬は序盤は確率で説明されてしまう.何度も何度も観察して理論との大きなずれが誰の目にも明らかになった時,経済学者はしぶしぶ3の方向性に転換し,理論の方を放棄するのである.これが,3を取ることがほとんどの物理学との決定的な違いといえるだろう.

 

まとめると,実証経済学は本質的には物理学と学問として全く同じ方法論を取っている.しかし,あらゆる命題の修正がが2の方向性をとっているが故に,多くの命題が確率的な命題になってしまっているから,物理学とは全く異なる様相を呈しているというわけだ.

この圧倒的相違をみるために,確率という概念がそもそも哲学的に問題のある概念であるということを述べておきたい.確率とはそもそも何か.サイコロを振って1の目が出る確率が1/6とはどういうことか.これは「サイコロを振る回数を無限大にしていけば1の目が出る割合が1/6に収束していく」という定義が妥当そうだ.では,この定義からすれば,第四時世界大戦が明日起こる確率はいくつだろうか.これだと一回きりで極端な気もするので,経済に目を向けると,明日平均株価が上がる確率はいくつだろうか.もうお分かりだろうが,確率という概念がそもそも数学的な概念,定義次第でどうとでもなる概念なのである.すなわち,確率が絡んだ諸命題は「確率とはーである」という数学的な定義をもとにして,「私たちが日頃口にする確率とこの数学的確率が一致する」という「原理」を体系の中に組み込んでいるというわけだ.*1

物理学再考

物理学と確率

ここで物理学へと再び目を向けてみる.(先に断っておくと,自分は量子力学に明るくないので,間違っている可能性は高い).思い出せば,現代物理学の体系をなす量子力学では「コペンハーゲンの確率解釈」というものがあった.これは... と講釈をたれそうになったが,やっぱりやめておく.言い訳の括弧書きをつけておいて何を今更,という話だが,とにかく現代物理学は確率という概念を内包しており,これが解釈止まりの「原理未満」の公理でしかない,ということを述べたかった.(これは素人の完全な妄想だが,本来世界は4次元以上で,多次元における現象の3次元的表れが量子力学のような奇妙な色々を引き起こしているのではないかと,ふと思った.)

となるとおや,物理は「である」の体系だと言ったが,もしかして厳密には「ならば」の体系なのではないだろうか.

経験主義へ

そしてここで,「待てよ」となる人がいるはずだ.前節の最後の言葉,

「私たちが日頃口にする確率とこの数学的確率が一致する」という「原理」を体系の中に組み込んでいるというわけだ

を検証しよう.これを突き詰めれば客観的だと言われる「長さ」だとか「重さ」だとかという諸概念も客観的ではないのではないだろうか.

それは確かに正しい.私が見る定規の長さとあなたが見る定規の長さが正しいという根拠はどこにもないのだ.*2そこで確率よりももっと広い概念に再定義する必要が出てくる.冷静に考えるとアプリオリな理論とアポステリオリな実在世界を結びつけるのは,「観察」であった.結論としては,物理学も本当に厳密にいうならば「個人iと個人jの観察が一致しているならば」というならば型の数学的体系なのである.

物理の節での言葉を振り返ってほしい.

物理学の目的が物理世界の把握であるから,その物理世界を観察して理論と合致しなければ,理論の方を棄却しなければならないからだ.

ここでは「理論と観察の合致」と言ったが,実はこの「合致」が「ならば」的体系を基礎にしたものだったのである.

 

ただ,「観察」は「確率」という概念に比べてはるかに客観性が高い,というのは重要だ.目の前に各辺が1cmの角砂糖があった場合にそれを見た二人はおそらく「角砂糖がある」「1cm」などの認識についてほとんど完璧に共有できるだろう.カントが時間と空間の認知形式をアプリオリなものと提言したように,時空間は数ある主観の中でも限りなくその重なり合い=客観に近いのである.

補足として.観察と確率は多くの場合重なり合う概念だ.例えば「カラスは黒である」という観察は,紛れもなく「今まで観察してきたカラスは全て黒だった」言い換えると「カラスが黒である頻度=確率は1である」という主張である.そしてこの例のように確率を気にしなくていいほど多くの観察が得られた場合はその観察は「確率なき観察」となる.有限回の観察から得られた原理は,無限回の観察でも真となると「見なす」ことができるわけである.これが「観察」と「確率」の関係性であり,観察を非常に多く繰り返す物理学が観察と確率に関する哲学的問題をうまく隠すことができている理由である.

真に厳密なものは無内容である

ここまでで,経済学はならば型の体系すなわち数学的体系であり,物理学も厳密にいうと数学的体系であることがわかった.これは「厳密な真理」を探究したことに起因する.勘違いしてもらっては困るから言っておくと,これはいささかネガティヴな結論である.物理学と経済学が数学的体系であることは実利の観点からはこれっぽっちも嬉しくない.

厳密な真理は「ならば型」のみしか含まないので「である」という言明が一切現れない.これは困ったもので,この厳密な立場を取るならば,経済学を政治に応用することにとどまらず,物理学を工学に応用することも否定される.それらの知識が潤沢に使われている現実の世界を見てもはっきり言ってありえない立場である.したがって,現実には「厳密ではないけど便利だよね」と(非厳密な)99.99%の真理性に(ポジティヴな意味で)依存する事になる.

 

しかし,どんなに不都合であっても私は真理についてこの立場を固守する.そして実際それに最も近いと思っている規範的経済学,あるいは数学に魅せられている.形式論理を人類が共有していることを信じているからである.そしてそこから導き出されるならば型の主張はたとえそれが無内容であったとしても非自明で私たちの認知を改善するもので,何より美しいものだと信じているからである.

感想

文章にしてみれば自分にとっては自明なことも意外に長くなったので,書いて良かったと思う.ただ逆に長いので人に見せるものではなくなってしまった.

ここまで読んでくださったキチガイ様がいらっしゃる”ならば”私はあなたに感謝する.

補足1:

この文章では,見出しにわざと「である」を頻出させた.私はここで述べた内容を自分の世界観では限りなく真だと思っているが,本質的には客観的かつ断定の言明ではない.それは,ここでの主張が「私と読者が各々の用語と世界とのつながりを正確に共有しているならば」という「ならば」型の言明だからだ.例えば,私は「命題」という言葉を使った時,「真偽が定まるもの」を心象に描いている.そして「真偽」,「定まる」という用語も(無意識に)何らかの形の心象となっている.これらの営みを無意識から意識に持ち上げようとするならば,この還元は有限回の操作でおそらくある種の「アウラ」だの「言語化不可能な心象」だのに到達してしまう.「”定まる”っていうのは文字通り”定まる”ってことだよ!」というほかなくなるのである.このアウラは不思議なことに人類の多くが共有しているが,完全に共有されているということはないであろうし,少なくとも共有されていることを証明することはできないであろう.実際,カントは「時間と空間の概念=形式」が全人類のアプリオリに付与されていると主張したが,これに対し生まれつき目が見えなかった人が見えるようになった時に世界が曲がって見えたという実験があって,すなわちそれすらもアプリオリではないようだ.

まとめると,この文章は「(先述した)用語に関するあらゆるアウラ・心象が筆者と読者で一致している”ならば”ーである」という,数学型の主張なのであり,本質的に無内容なのである(ならなぜ書いた!繰り返すと,それは無内容にも関わらず多くの人にとって非自明だからだ).

*1:この意味で,私は初学者ながらSavageの主観確率にかなりの期待を寄せている.期待効用理論の公理系がそもそも直観的であるかという話はさておき,確率が世界に存在していなかったとしても「確率のようななにか」を私たちは概念的に有しており,それに対する態度もまた有している(例えば,ギャンブルをどう戦うか,保険をどのくらい買うか,など)からだ.客観確率の存在を想定せずにそのような態度から逆に確率を定義するというのは人間を理解する学問としてはかなりの真理性を担保するように思われる.

*2:しかし,いわゆる同型射のようなものが私とあなたの認知の間に考えられる,とすることもできそうである.具体的には,長さは違っても長さの比が同じだということである.では比は人類にアプリオリに与えられるだろうか.長さよりは真のようだがそれをアプリオリに証明する方法はおそらく存在しない.