理想について

備忘録

宮崎駿『君たちはどう生きるか』解釈と感想

はじめに

宮崎駿君たちはどう生きるか』は、エンタメとしては低評価、アートとしては高評価、より具体的に言うと、商業的には前作の『風立ちぬ』の二分の一程度の内容で、作家最後の作品としてはその十倍相応しいといった評価になる。

前者は、端的に言って面白くないということであり、それは概して①ストーリーが面白くない点と、②没入感のあるフィクションではない点に分解される。問題は、この①も②も――特に②が――アート性とテーマ性の犠牲にならざるを得なかったということであり、作品の商業性の低さが過度に非難されるのだとしたら、六十年近くもアニメ作品に捧げてきた宮崎駿の人生も報われないというものである。

もちろん、面白くないという評価も、青年・大人の視点であって、合理的な認識が確立されていない子供の感想が気になるところである。『千と千尋の神隠し』の爆発的ヒットなどを踏まえても、この作品のヴィジュアルに説明不可能な魅力・夢想的な魅力があるともないとも言い切れない。この種の「魅力」に関して門外漢の私は、これ以上の言及を避けることにする。

若干脱線してしまったので、もう一度簡潔に述べよう。宮崎駿の『君たちはどう生きるか』は、これが「宮崎駿引退作品」であるという前提を踏まえて評価するなら、大傑作です。

本記事は、宮崎駿の映画『君たちはどう生きるか』の客観的な考察というよりは、私の個人的な解釈を主軸として、個人的な感想をそれとなく添加したものになる。誰もが納得する決定的な根拠はないが、このように解釈すれば、本作が全体として無駄なく秩序だった作品として理解できると思っており、それこそが決定的な根拠だともいえる。

作品テーマと解釈

本作品のテーマを簡明に述べよう。本作品は、宮崎駿自伝である。そしてその内容を一言で言えば、「現実と虚構の調停」。もう少し丁寧に言えば、「私、宮崎駿は、虚構の創作に人生のほとんど全てを費やした。それ自体に後悔はない。しかし、こうして老いさらばえた今、現実世界を力強く生きたかったという思いも少なからず残っている。もし人生をやり直すなら、その自分には現実を生きてほしい。そして、今から人生が始まる子供達にもまた、虚構に執着せず現実を生きてほしい。

そして以下に、この解釈を成立させるためのアナロジー関係を列挙する。私個人としては作品が扱う主題の範疇を狭めたくない・単なる自伝として済ませたくないため、下線部の類比関係を重視し、それに即した解釈論を進めることにする。下線なしの項は、下線部の類比をより具体化したもので、宮崎駿自伝と理解するなら恰好の素材、大衆受けを狙うならこちらの解釈をプッシュしたであろうという対象だ。

  • 主人公眞人:現実を生きたい宮崎駿宮崎吾郎
  • 大叔父様:創作したい宮崎駿宮崎駿
  • ナツコさん:創作のネタ:創作のネタ
  • ペリカン:虚構の世界に没入した大衆ジブリ信者
  • インコ:虚構の世界を道具的に利用して生きる大衆:アニメ関係者や評論家
  • 空から降ってきた塔:虚構世界と現実を繋ぐチャネル:アニメ創作行為
  • 塔の外装:体系的に整理された虚構世界スタジオジブリ
  • 裏世界:現実ではない世界宮崎駿アニメ世界
  • ヒミ:宮崎駿の憧れ(女):母親
  • アオサギ宮崎駿の憧れ(男):高畑功?

記憶できたものを並べただけでも非常に多いが、作品テーマを自分流に解釈するならば最低限必要な類推である。*1

これを踏まえて、ストーリー体系の含意するところを説明すると、次のようになる。

  1. 眞人は、東京で母親を喪失し、安全な夢想世界へと疎開したが、そこは、大叔父様(宮崎駿)の創作物で満ち満ちていた。アニメの魔法を使えば、矢を望むように飛ばし、母を復活させることもできる。作画による母の復活に疑問を抱きながらも、眞人はアニメ(ジブリ)作品世界に逃げ込んでいった。
  2. 作品世界・虚構の世界には、同じように現実から目を背け、あるいは現実と乖離し、作品に没入し続けているペリカンジブリファン)が、食料を求めてさまよい、醜く食料にたかっている。しかし彼らは、宮崎駿に連れてこられた被害者だ。
  3. インコ(ジブリ関係者・評論家)たちは、現実世界を調理、つまり創作のネタにしてお金を稼いだり、承認欲求を満たしたりしている。彼らは、妊娠した母を禁忌・聖域とする一方で、少年眞人や少女ヒミらを喜んで消費しようとしている。
  4. 裏世界の起源:空から降ってきた塔は、現実には存在しない、虚構そのもの。虚構に魅せられた大叔父様(宮崎駿)は、虚構を創作・整理するという仕事に憑りつかれていったのだった。
  5. 大叔父様は、穢れのない純粋な積み木=下劣ではない作品を創作し、それらを体系として信じることで、裏世界=作品世界の安寧秩序を守ってきた。死期が迫る中、この創作の仕事を誰か真の理解者・眞人に引き継がなければならない。
  6. しかし眞人は、これら作品が称揚するような純粋性を、自分が持っていないということを知っていた。自分は、悪意も抱える不純な人間として、生きなければならない。そう考えた眞人は、逃避先でもあった作品世界と決別することに決めた。
  7. インコの大王(アニメ関係者の親玉)は、大叔父様によって創作される作品が、現実とは正反対の夢想的な積み木遊びに過ぎないと断ぜられたことを、作品に対する冒涜侮辱だと思って憤怒した。作品の本質を理解していなかった大王は、表面的な積み木の組み立てで安心しようとしたが、絶妙なバランスで成り立っていたそれは、瞬く間に崩壊してしまう。結局、大叔父様の「作品を継承させるべきか」という葛藤とは無関係の別の場所で、作品は継承不可能になってしまった。
  8. 眞人とヒミは、作品世界に未練を残しながらも、現実世界に帰ろうと決めた。大叔父様も、現実への回帰を後押しする。眞人は、ヒミによって、母親の死の上で成立する自分の出生を肯定されたため、母親の死を自己肯定と共に受け入れる。塔(スタジオジブリ)が崩れ去った後、作品も全くの無になったわけではなく、美しいインコ(宮崎駿作品の本質のひとかけら)たちが現実世界に残った。眞人は、東京=現実に戻って、地に足の着いた人生を歩み始めている。

ここで断っておきたいのは、本作品では、「母親」が透徹したエロティシズムとして描かれているということである(その一部は8で軽く触れたとおりである)。その意味で、母性もまた一つの主題といえるが、母性を本命テーマとしてしまうと、作品のストーリーラインにいまいち必然性だとか合理性が見えてこない。

以降では、ミクロな描写を分析して、上記解釈の詳細を洗い出す。ただしそれは解釈の正当性を多少後押しするのみで、解釈の本質的な部分は上の1から8で既に尽くしている。

物語の導入

物語序盤の一連の流れは、練りに練られた順序で構成されていると評せずにはいられないが、描写のテンポが速い分、あまりグダグダと解釈しても仕方がない。簡単に並べてみると、

  1. 母の焼死
  2. 離京
  3. 上京する兵士
  4. 屋敷と老人
  5. あっさり手に入る砂糖
  6. 労働しない眞人
  7. アオサギの羽を矢につける
  8. 塔へ(この以前に書籍『君たちはどう生きるか』との出会いがあるが、後述)

「上京vs離京」「兵士vs老人」という対比構造がここにはある。

「兵士vs老人」について。これはつまり精力ある若者vs衰えた老人ということで、眞人が住み始めた屋敷は常に平和な老衰の予感で満たされていた。いつもというわけではないが、そこでは砂糖や煙草も手に入る。眞人の周辺で「戦死」を目撃することはおろか、疎開先なのだから爆撃に遭うことも滅多にないだろう。母親が病死ではなく焼死であったことも、無関係とは思えないが、そこまで断定するのはこじつけが過ぎるだろうか。とにかく眞人は、命を燃やすことなく、ゆっくりと安全に死を待つような環境に「逃げる」ことができたのだ。

個人的には、6がとても印象的で、宮崎駿作品でここまで労働しない男がいただろうか。交渉材料のタバコや羽を接着するためののりなど、それらはすべて屋敷でくすねたもので、自力で生産したといえるのは弓矢だけだが、それも上手く作れたとは言えない。矢に創作物であるアオサギの羽をつけて初めて、弓矢としての機能が完成されるという始末である。

本記事の解釈の重要箇所を強調することを忘れていた。この作品で発生するファンタジーはすべて、大叔父様の創作物なのである。君たちはどう生きるか』という映画は、それを現実との区別を曖昧にして描いているに過ぎない(メタフィクションにて後述)。

母が死んだなら絵の具で描けばいい

眞人が塔に入ると、そこには死んだはずの母親が居た。好奇心を抑えられなかった眞人が触ってしまったその母親は、何やら液体になって融けだしてしまう。「もう一度作ってやろうか」と唆すアオサギに対し、眞人は「なんてひどいことを」と罵る。

このシーンを私流に解釈すると次のようになる。

眞人は母親が死んだ現実、喧嘩に勝てないという現実、父が再婚した(上にもしかしたらその再婚相手が好きかもしれない)という現実から目を背けたいと思っている。彼は大叔父様の塔=創作世界に逃げ込んだ。そこでは、画材を使って求める虚構を自由に描くことができ、実際に母親は大叔父様の作画によって復活した。しかし、絵は絵に過ぎない。眞人は、創られた母親に現実的な肉感を求めたが、それは叶わず、絵の具・インクになって融けてしまった... まだ虚構世界に毒されていなかった少年眞人は、その世界で母親を再生産する欺瞞に気づくことができた。が、気づいただけであり、親離れには至っていない。

現段階だと、この解釈を採用するにはまだ証拠不十分である。この解釈の是非は一旦脇に置いて、次章次次章に進んでから、また改めて検証していただきたい。

殺生のない虚構世界、そこに「連れてこられた」ペリカンたち

「あまり好きじゃない(眞人談)」現実世界から逃げ込んだ下の世界・裏世界は、大叔父様が創作した作品の世界。裏世界に殺生はない。大叔父様がそう設定したからである。何でもできる創作世界でわざわざ、むごたらしい殺生を創る必要はないのである。

ペリカンたちは、裏世界の産物を貪り食う。彼らはわらわら、すなわち、子供になって現実に生まれられるほどに熟した豊かな精神を狙って食べるのだ。作品世界に生きる彼らペリカンは、大叔父様=宮崎駿の創作した作品に没入するファンたちだ。

裏世界において異様なほど平和的な存在だったわらわらは、ネガティヴに解釈した場合、創作された他の現象――時にそれはおぞましいほどのリアリティを帯びたものであろう――に対して屹立する、消費しやすいエンタメなのかもしれないが、ここではあえて、観念的な豊かな精神、より抽象的には、アプリオリな(形而上の)原風景の記憶と素直に解釈しておきたい(だから、実のところ私は、裏世界を創作世界ではなく、より広範な虚構世界として解釈することを推したいのである。虚構世界は、露骨な創作物のみならず、現世を生きる我々が妄想するような、前世の世界や死後の世界を含んでいる。それらすべてが、人々を現実から引き剥がす機能を持っている)。

作品の、虚構の中でしか生きられなくなったペリカンたち、大衆たちは、悪なのか。「お前たち、フィクションに固執してないで、現実に帰りなさい」と、こうピシャリと叩きつけられるべきなのか。否。厠へ向かった眞人は、老境の、酷い怪我を負ったペリカンに会うことになる。そのペリカンは死を望みながらこう言った。

「私はこの世界に連れてこられた。ここは地獄だ。海には食料も少ないし、こうやってわらわらを食べるしかないんだ」

そう、宮崎駿は自覚している。「自分が、鑑賞者を、作品世界に連れていきたいと願い、実際に連れてきた」のだと。老いて裏世界で死んでしまうペリカンはそこを「地獄」だと形容した。裏世界の海に魚は少ない。それも当然、創作者・宮崎駿が描いて初めて、やっと一匹の魚が海を泳ぎだすからである。現実世界では、海面からは見えなくても、確かに魚がそこに"在る"。しかしアニメ世界では、見えていないものは端から"存在しない"。作品を貪る大衆は悪でも何でもない、ただの被害者だ。創作者だけが、悪なのである。

ペリカンは、創作者によってまんまと作品に依存させられたファンだった。

インコは地獄で金稼ぎ

そう、ペリカンたちは、作品を愛しているのである。作品が好きで、好きすぎて、没入して、現実を喪失してしまった。

では、インコは?「ペリカンと同じさ」とアオサギは言った。本当にそうだろうか。インコたちは、豊かで幸せそうに見える。そして異常なのが、みんなが意気揚々と包丁など料理器具を所持していて、調理するための食材に飢えている。意気揚々と、飢えている。料理された食材は――勿論生きるための最低限もあるのだろう――食べ残しが容易に想像できる巨大なケーキなど、生存に不必要という意味で貴族的な嗜好品が印象的だった。ペリカンは、生きるために、食べなければいけない。インコは、もっと食べたい、もっと、もっと。両者の”飢え”は本質的に異なるものである。

調理?インコたちの調理は何を意味しているのだろう。「ここは僕の世界と全然違うけど、似ているところもある」眞人が言ったように、裏世界は多少なりとも現実に類似している。あるいは、人形のように、現実をそのまま借用したものもある。それもそのはず、創作物のすべては、現実世界からインスピレーションを受けたものだからである。時として創作者は、人の死をネタにして、人の痛みをネタにして、面白い物語を作る。時として評論家は、人の死が生み出す人間ドラマを、人の痛みが生み出す人間ドラマを引き合いに出して、物語の価値を礼賛する。彼らはそうやって、お金と承認欲求を稼ぎ、貪るのだろう。「人の死」の代わりには、障碍者が入るかもしれない。LGBTQが入るかもしれない。人種差別が入るかもしれない。あるいは、性癖。ロリコンショタコン、女性の裸体、何でもいいが、商業的あるいは娯楽的な創作物には現実を消費・搾取するという側面が少なからず付きまとう。インコたちは、それら創作行為・批評行為に無反省な、虚構の住人だったのだと思う。

従者のインコは、創作世界の天上「天国」で恍惚と「美しい...」とこぼした。ここに、自身の審美眼に惚気る評論家の面影を見てしまうのは、考えすぎだろうか。

これを踏まえて初めて、ナツコの役割が腑に落ちる気がする。

インコは言った。「ナツコのお腹には赤ちゃんがいるから、食べちゃいけないんだ」。なぜか?これがいわゆるポリコレである。先述したように、創作世界は、現実を、時には不幸さえも、アイデア化して、消費の対象・お金を稼ぐ手段にしてしまうが、この傾向は年々強まっている。一方で、ポリティカル・コレクトネスに反する表現を過度に弾圧し、無菌化しようとする傾向もまた強まっている。「グロエロ大歓迎だけど、出産の消費は駄目だよね」。ナツコの禁忌はそのような、消費の進行と、一部世界例えば女性世界の聖域化という、作品界隈で作用する相反する二つの力学を喝破したといえるだろう。

だがしかし、作品に憑りつかれ、「地獄」に沈められたという点において、確かにペリカンとインコは全く同じで、決定的な境界はなさそうだ。

黒幕・大叔父様

空から降ってきた虚構は、時の回廊で時空を超える

「大叔父様は本を読みすぎておかしくなってしまった」。この記述は、本記事を支える重要な根拠の一つとなる。これが、大叔父様が虚構に耽溺する創作者であることを意味しているというのは、火を見るよりも明らかだ。

さらに、「世界のあらゆる場所とつながっている」この塔が指示するものが、時間と空間を超えて存在することのできる虚構あるいはアニメ作品であることは、理解に時間を要しない。

塔の外装は、空から降ってきた、現実には存在しえない物体に、後付けで施されたものらしい。具体的には、アニメを規矩正しく制作する、スタジオジブリと解釈するのが順当だろうが、知識ありきの作品解釈は勿体ない、なるべく避けたいので、虚構観念とアトリエくらいの感覚で観るのが順当であろう。

とにかく、人は、虚構に魅了され、虚構を創ってきたのだ。それは人の生存のための知恵であると同時に、人を破滅へ導く麻薬であった。

十三の積み木、継承か決別か

大叔父様は、十三個の積み木を積み上げて、作品世界の秩序を保った。十三という数字は、おそらく宮崎駿が創作してきたアニメ作品の数だろう。「幸せな」、「悪意のない」その作品世界。彼は眞人に、新たに積み木を組み立て、後を継いでほしいと頼む。

眞人はそれを断った。

「これは悪意の証です」

純粋でも無垢でもない。そこには牧眞人という「裸の少年」が立っていた。

大叔父様の葛藤に割り込むデウス・エクス・マキナ

大叔父様と眞人の葛藤と問答の最中、突如そこに、インコ大王が割り入ってくる。

「何という裏切りだ!」

美しい作品世界、その高尚さと実在性を信じて疑わなかったインコたちの親分は、それが上=現実と対を為す下=虚構のものであるということを受け入れられなかった(形而上と形而下という言葉に対する皮肉を感じるのは気のせいだろうか)。

本当の積み木の組み立て方も、積み木の悪意もわからないインコ大王が、無秩序に、雰囲気で積み上げた積み木作品は、いとも簡単に崩れ去ってしまった。

大叔父様にとって、それは無関係の他者からもたらされた突然の結末だったが、同時に、やっと渡された最後通告でもあった。大叔父様はこれからを生きる若者、眞人とヒミにこういった。「時の回廊へ行きなさい」。

家に帰りなさい。私の作品を継承するなんてことは考えず、自由に、人生を生きなさいと。

このパートは良くも悪くも露骨過ぎる描写だったと思う。私は本作品を二度鑑賞したが、少なくとも一回目では、ラスト十五分まで何を伝えたいのか全く意味が分からないままで、ひたすら女、女、女、といった所感だった。しかし、――それが監督の望むところなのかは分からないが――このシーンで一気に主題が整理されたという具合だ。

作品に対するヒミの未練

大叔父様の崩れた積み木とデスクが、駆けるヒミと眞人の後ろで虚空に消えようとしている。思わず後ろを振り向いたヒミが、悲痛な表情で積み木を見つめ、大叔父様に感謝の気持ちを述べるこのシーン。

涙が出た。私がフィクションで泣くことはほとんどないが、このシーンを描いた宮崎駿を想像して涙が出た。十三個の積み木に対する未練。名残惜しい。捨てたくない。…死にたくない。宮崎駿が、人生をかけて、アニメ創作でかき集めた、たった十三個の積み木である。

だからこそ、ヒミと眞人のモデルを宮崎駿以外の誰かだと解釈するのは嫌だ、と思ってしまった。もし、宮崎駿でなかった場合、ヒミに「大叔父様、ありがとう」と言わせたのがかなり気持ち悪くなってしまう。そしていずれにせよ、このセリフはいらなかった。感謝の言葉が芝居臭かったがゆえに、一瞬で涙は引いてしまった。ヒミとマヒトがただ後ろ髪を引かれるだけの描写だったら、号泣したに違いない。だけど、セリフはあったが、今後鮮明に思い出すだろう。それくらいには好きなシーンだった。

現実へ、そして東京へ

塔、作品世界は崩壊した。眞人は、ヒミによって、母親の死の上で成立している自分の出生を肯定されたため、母親の死を自己肯定と共に受け入れた。それは現実の肯定、「生きる」ことの肯定である。

アオサギ「あの世界のことは、少しずつ忘れる」宮崎駿は少年少女に、俺を忘れろ、とでも言っているのだろうか。

最後に、眞人とその家族は、夢の世界から東京に帰る。

離京に始まり上京に終わる。そしてその描写が、作品ただ一対のモノローグ。現実から虚構へ、そして現実へ。とても綺麗な結び方だと思った。

断絶した扉の向こう側から戻ってくるというよりは、緩やかに下った谷からゆっくりと登ってくるような、そんな感覚が残った。

七色インコが羽ばたくラスト

果たして、虚構は完全になくなってしまったのか。

おそらく、そうではない。というのも、眞人が最後に、裏世界の石を持って帰っているからである。また、最後に虚構の世界からインコが飛び出してくるからである。人にはならない。戻れなかったのか、元から人ではなかったのか。おそらくは後者であり、それは七色インコが大叔父様の創作物だからだ。創作世界出身の彼らが、代謝の産物である白いフンを主人公らの顔面にぶちまけるのは、示唆に富んでいる(創作者の自涜と受け手への顔射を表現しているということも一瞬考えたが、二度と考えたくない憶測だ)。

そして、眞人のエネルギー源もやはり、吉野源太郎『君たちはどう生きるか』。創作物なのである。

虚構に生きてはいけない。だけど、虚構があったから今があるし、虚構と生きていこう。それが果たすべき役割は、主食というよりデザートだ。私が本作品のテーマを「現実と虚構の調停」と理解したのは、上記のような理由による。

実は高度なメタフィクション

ストーリーラインに則った解釈は以上となるが、おそらく本作品には、さらにメタな目的があった。

直前の指摘を引き継ぎ、インコを創作物だとしよう。しかし思い返すと、インコは人々のアナロジーでもある。人でもあり、七色インコでもあるこの存在。このような形で、現実と虚構とアナロジーが織り交っているのが本作であり、本作が高度なメタフィクションだという考察に繋がる。

メタフィクションの難しさ

まず、メタフィクションの定義を確認したい。

フィクションとは、Wikipedia――フィクションの絶対的な定義は存在しないため、ある程度の納得感があればなんでもよい――を引用すると(太字は筆者による)、

ファンタジーの定義は、曖昧であるが漠然とした傾向として、作品の魔法などの空想的な語彙(要素)が(現実的にはありえなくとも)内部(著者、編集者のみならず善意の理解者を念頭に置くことができる)的には矛盾なく一貫性を持った設定として導入されており、そこでは神話や伝承などから得られた着想が一貫した主題となっていることが挙げられる。

一方で、メタフィクションの定義はかなり固定化されているといった印象で、Ⅰ作者や登場人物が作品世界が創作物だと作中で宣言したり、Ⅱ登場人物が自身の属する世界を創作物だと知っていないとあり得ないような発言をしたりする場合、その作品はメタフィクションだといわれる。

作品世界の没入感が損なわれるというリスクは承知の上で、例えば手塚治虫が自身を作者として作品に登場させてギャグを狙うといった、Ⅰ型のメタフィクションは大好きである。一方で、Ⅱ型のメタフィクションは、私の知る作品だと『エヴァンゲリオン(漫画以外)』や『SSSS.GRIDMAN』などがそれになるが、「現実へ帰ろう」という安直な、少なくとも虚構創作を生業としている人間から発されるにはあまりに興ざめで無責任なメッセージが直接的な描写で称揚されることがほとんどである。*2

私はそのような物語構築に対して、それを破綻と見做すほどには懐疑的であり、それは、創作者が「現実を生きよう」という信念を持っているのならば、物語を観た人が現実を生きる活力を高める作品作りに尽力するしかないと思っているからである。「尽力するしかない」という一種の諦観の根拠は、虚構による虚構の自己言及が、虚構の為せる範疇を超えているからに他ならない。

しかしながら、直接的に「現実を生きよう」というテーマを扱いたくなるのもまた事実で、現実を志向しすぎた創作者が、虚構の創造を繰り返す虚無感に襲われることは想像に難くない。彼らは現実を愛し、現実に生きたいと誰よりも願っているのに、生きるためにやることが現実には存在しないものを紡ぐことだからである。

メタフィクションではない理由

本記事の解釈・類比が正しいとするならば、この作品は暗に――最も露骨な描写は絵の具となって融けだす母親だが――作品内のファンタジー要素が大叔父様や眞人の創作物であることをすでに宣言しているということになる。が、作品内に登場する創作物を、創作物だと宣言したところで、当然メタフィクションにはならない。本は本である。・・・(α)

では本当に、メタフィクションでないと言い切ってもいいのか?否。宮崎駿は、実に巧妙なトリックで、本作のメタフィクション化に成功している。その理由を説明しよう。

君たちはどう生きるか』のフィクション構造

冒頭②で述べたように、この作品はフィクションとしての一貫性に欠けるところがある。

千と千尋の神隠し』では、千尋たちが森のトンネルを抜けることが、架空世界へ旅立ったというシグナル、それも、鑑賞者の誰にでも分かるシグナルになっていたのだが、今回はそれがない。

合理的な解釈をするなら、東京を出たときにすでにファンタジーの領域に足を踏み入れたと考えるべきであろうが、鑑賞中にそれに気付くようには作られていないし、気づく必要がない。虚構の世界と現実の世界をはっきりと区別してしまったらそれらを調停することが不可能になってしまうからである。

もう少し掘り下げよう。この作品でいうところの「ファンタジーの領域に足を踏み入れた」とはどういうことか。ここまでの解釈を踏まえると、それは「大叔父様の創作物に没入する」ということであるはずだ。つまり、物語『君たちはどう生きるか』で、事実として起こっているのは、「東京から疎開した眞人が、大叔父様の書く小説を読みふけったり、創作するなどして、夢想的世界にたびたび入ってしまう」という物語であって、ここではそれが、物語世界とその中の小説世界の行き来を曖昧に描かれているということである。

整理すると、まず二種類の相対軸がある。

  • 【A】我々の生きる現実世界vs【B】眞人の生きる現実世界
  • 【B】眞人の生きる現実世界vs【C】眞人の虚構世界(大叔父作品、天国夢想)

注意したいのは、相対軸の二点目において、【B】と【C】の境界が曖昧だということである。曖昧ならば、【C】が【B】に接近してきて、【B】=【C】と理解しても、問題はない(この場合、『君たちはどう生きるか』が純粋な冒険活劇ファンタジーだったということになる)。・・・(β)

(β)の考察に(α)の事実を加えて解釈したとき、この作品は、【B】と【C】の両方がフィクションであることを宣言していたといっても過言ではないのである。

すなわち、【B】=『君たちはどう生きるか』がフィクションであると、『君たちはどう生きるか』自体が宣言している(ようなものである)。作品内の現実と虚構(【B】と【C】)の境界を曖昧にすることによって。

この作品はメタフィクションに分類されるべきでないし、されないだろう。しかし、以上のような巧妙な手口によって、メタフィクション(Ⅰ)の目的をほとんど達成するような仕組みを作ってしまった。

さらに補足すると、

  • 【A】我々の生きる現実世界:【C】眞人の虚構世界

という本記事で解釈した類比軸によって、本フィクション作品自体が、ノンフィクションに限りなく近い役割を果たしてしまっている(ただしこの表現は、ノンフィクションの重要要素を捨象しているため、注意が必要である)。これによって、現実と虚構の区別をさらに曖昧複雑なものにしている。

本章を要約しよう。虚構からの脱出は、特に優れた作品を生み出して人々を魅了没入させてきた作家の最後の題材としてはこの上ないテーマだが、原理的に、その表現は困難を極める。『君たちはどう生きるか』はその仕事を見事にやってのけた。

ヒミとアオサギは何だったか

本章はこれまでの解釈とは独立した点であり、そしてこれこそが本記事の基礎の崩壊を示唆する箇所であるのだが。火と鳥の形をとった二人のキャラクターに関しては、分からない点が多い。

ヒミとアオサギは、「現実世界と虚構世界の両方に身を置いた、眞人を取り巻くリアリティー」というのが、現状の解釈だ。ヒミは、大叔父様の作品世界を愛しながらも、インコやペリカンを焼いたりと、完全に作品に浸かっているいるという様子ではない。アオサギも、最初こそ眞人を塔へ連れて行こうとするが、ナツコ探しをそれとなくやめさせようとしたり、序盤終盤、塔の外で平然と暮らすなど、どちらかだけの住人といった具合ではない。

ヒミ

ここまで一切言及してこなかったが、本作品は過剰なまでに女性崇拝――いや母性崇拝か――が基調となっていた。それも日本的なモチーフが多く、というのも、夜の火と共に昇天する母親は何となく天照大御神を想起させるし、喪失した母親に激似の妹や、母親の幼少期との関係性が、家族愛を超えた恋慕の情とも捉えられかねない方法で描写されている様は、源氏物語を思い起こさせる。男が母親似の女性に惹かれるというのはよく聞く話であるし、男にとって、母も一人の女で連続的な存在なのだろう、と思わざるを得ない。例えば川端もそのような系を書いていた記憶があるし、人間というもの老年期になると、そういう境地に行き着く、あるいはそういう真実に気づくのであろうか。

一つ言えるのは、ヒミやナツコ周辺の物語だとか主題は、宮崎駿のエロティシズム表現であって、理屈をこねても仕方がないということだ。そして、母親を中心としたテーマが、宮崎駿作品では稀な「うじうじした」少年でないと描写不能であったということも、また事実だろう。

アオサギ

アオサギは、眞人の誘惑者でもあり、敵でもあり、友人でもあるといった、非常に奇妙な役回りを演じる。材料が少ないため、憶測どまりであるが、アオサギ宮崎駿の男友達・戦友を象徴しているのだろうと思う。そのような男同士の複雑極まる関係性は、私も身に覚えがある。*3

まとめ

以上を踏まえると、宮崎駿君たちはどう生きるか』の成功はおそらく、商業的な成功とは違ったところにある。それを作家の傲慢だと断ずるのかどうかは受け手の自由だが、締めの作品としては最高だったじゃない?というのが、私の感想だ。ちなみに、作画はすごかったと思うが、本当にすごいのかはよく分からない。

繰り返しになるが、この解釈に決定的根拠はない。納得するかしないか。それだけ。ここまで読んでくださった方には感謝です。

おわりに

こんな作品を創ってしまったのだから、今度こそ本当に、宮崎駿の次回作は無いのだと思います。お疲れ様でした。ありがとうございました。でも次回作待ってます。

*1:眞人=宮崎吾郎説について。初見で観たときにそう感じてしまったのは事実であるし、物語の人物を素直にトレースすればそうなるのだが、私はこの作品を、宮崎駿による自分自身に対する説教だと解釈している/したいので、宮崎吾郎という類推は推奨しない。

*2:グリッドマンに至っては、カオスなくらいが面白いとか言っちゃって、統一感のないぐちゃぐちゃのプロットを正当化しているからどうしようもない...作品自体は好きですよ?キャラ造形が群を抜いて上手いというか性癖なので繰り返し観ている。

*3:これは個人的な直観だが、ヒミとアオサギのキャラ設定は、ゲーテファウスト』をモデルとした、グレートヒェンとメフィストフェレスだという妄想。根拠は特にない。