理想について

備忘録

「(相互)理解」について

自分は人の前で建前だけで生きてきたこともあれば本音を晒したこともある(本音を晒せたのは超閉鎖的なTwitterアカウントだけであったが)。そして今思うのは本音を出すというのは私の場合根本的に不可能だということである。本音を吐露するとき、どうしようもない動悸が生じる。全てが恐ろしくなって過呼吸になり、生きることを忘れる。本音を言うと決めた私にすでに本音を緻密に語るだけの理性を失っており、本音が届くことは叶わない。いつも残るのは後悔だけだった。「ああ、そういうことじゃないのにな」と。

 

思えば、このような経験を現実でしたのは恋愛関係のみである(実は他にもあるが、言いたくない)。おそらくいつも、無意識に自分の本音をセーブしているのだと思う。「本音」を言っているときも、自分の最も邪悪な一面だけは知られないようにと、本音っぽい建前を並べるのだ。それは自虐だったり自嘲だったりするが、それらは全て自己防衛の延長に過ぎない。「私は本音、汚い部分を話しました。でも汚さは”ここまで”で、本音はもう言ったから、これ以上は汚いものは出てきませんよ」とでも言うように。

ただ、誰かに好きだと伝えるときは例外だ。日頃から拒絶を恐れ、他者の肯定を求めている私は、このときだけ人にそれを魂を委ねる。私にとって、理想の夫婦とはお互いが本音でありながら平和に円満に暮らす夫婦だったから。相手に否定と肯定の権利のすべてを与える「告白」は、私から私の仮面を剥ぎ取っていき、彼女がその仮面をなんらかの形で返してくれるまで終わらない。私はそこでその場しのぎの仮面を急いで作る。確固たるストーリーの延長として構成していたあの仮面と程遠いそれは、私を建前でも本音でもない異形に変えた。自分が誰だかわからなくなり、彼女としゃべる自分が自分だとも思えなくなる。自分をコントロールしきっていたときの感覚も、彼女を好きだったときの感覚も全て忘れ、後悔と懺悔の記憶を消すためだけに彼女を拒絶した。今でも忘れないあの動機と過呼吸。冷静になれと言われたって、無理なんだよなあ。だっていっつも冷静なんだもの。

傷つけたくなかったのは自分が傷つきたくないだけだった。だから私には争いが必要だった。平和なんてのは幻想だ。「理解し得ない」の先にしか「理解」はないから。今の社会は「理解し得ない」のプロセスを吹っ飛ばしてお互いを理解したがっていると感じる。お互いを理解し得ないということに争いの中で気づいて、お互いを理解する。争いは終わらない。それで良いじゃないか。死にさえしなければ。匿名の海での表面的争いは、無意味だと思うけどね(笑)。

 

と並べながら、未婚の自分を自嘲する。あーアホらしっw この記事は本音?さあね。この記事も、投稿した後に後悔するんだろ?まあ癪に触るから修正しない。馬鹿馬鹿しいけど、おもしろいからこれでいいや。

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