理想について

備忘録

「自然」に関する典型的な誤謬

ある程度客観的な言明をしたいと思っている場合、「自然」という言葉を少なくとも「人間の手の加わらない、そのもの本来のありのままの状態。天然。」すなわち「非人工的」の意味で使うべきではない。なぜなら、自然というラインは客観的でもなんでもなく、人工的なものだからだ。

 

「資本主義(ネオリベ)は自由な経済活動から導かれる”自然な”経済形態であり、この自然なものを歪めるのが共産主義、過度な政治介入である」。例えばこの言明を見てみよう。彼のいう自然は、直感的にはもっともかもしれない。ここでは、政府という「人工」の介入しない経済が自然、すなわち課税や所得の再分配が恣意的なものであるということが主張される。しかしこの論法は根本的に間違っている。

これが自然なものであるなら、そもそもなぜ法整備が必要であろうか。「独占禁止法」「私的所有権の保護」これらは18世紀から人工的に創造された制度・概念であり、自然なものとは程遠い。人間の手の加わらない状態を自然な状態とするのならば、私的所有権は守られるべきではなく、契約など存在しない奪い合いの世界を想定するべきなのだ。

 

しかし、この主張もまたいささか単純化しすぎである。私的所有権に似た概念が太古から存在していたことも考慮して「自然に生まれた」と捉えることもできるというわけだ。例えばマルクスは、「自然に行き着く先が共産主義」のような思想をしている。おやおや、自然が何かわからなくなってきた。

こうなってくると自然という言葉を人間社会に適用することがそもそもおかしいことに気付かされる。「人間全員を放置していたら生まれた」を「自然」と定義しても良いのならば、「自然ではない」と表現されるべき対象はほとんどなくなってしまう。さらに、これは人間社会に止まらない。人間が先史以来自然に手を伸ばし続けてきたことを考えると、木々・川や海という「自然」も「非人工的」の意味で語ることは不可能であり、猿人出現以前を語る際にしかこの意味の自然は客観的になり得ない。

結局、「自然」という表現は「普通」という表現となんの変わりもないレベルで恣意的な言葉なのである。

 

この恣意性の根源として一般的に考えられる(よくある)のは、「現状・慣習の特異性」である。自然という言葉は、「今・慣習」(より正確には「理想化された今・慣習」)への特別視から生まれる可能性が高い。「性差による現在の社会的格差は自然である→17世紀の男女格差は不自然で今の男女格差は自然だと言える根拠はない」などの例はこの主張者が自分の生きてきた慣習を自然と見做していることに起因している。

 

したがって、少なくとも現状を徹底的に相対化して普遍的な主張を行いたいと思うのならば、自然という言葉を用いるべきではない。(私は、「なりゆきで論理的に演繹すると」を「自然に導かれる」のように使うことはあるが、これが「非人工的」とは違うことはわかってくれるはずだ。)

 

そしてこれを踏まえて、一つ特殊ケースの主張を批判したい。それは、お金持ちの主張する「これは自分の力で稼いだ本来のお金だから、高い税金は不当なものである」という主張である。これは自然という言葉を使っていなくとも先述した誤謬を犯している。彼のいう「本来の」は現代の資本主義ルールを所与とした「本来の」であり、そのラインは客観的なものでは決してない。この主張をしている人間は、「自然な(笑)大衆による一揆」によって生命(すなわち全財産)を喪失しても文句は言えないだろう。「普通に」考えて、社会に虐げられ続けてきた経済的弱者が死なばもろともと富める者を刺し殺すのは「自然な」成り行きだからである。