序論
日本がコロナウイルスによるパンデミックに片足を突っ込んでいる今日、不謹慎ながら私は自由主義論争にかかわる重大な権利問題に取り組む絶好の機会であると考えている。もちろんこれは「感染が拡大すれば学問的に面白いのに」という話ではない。少なくとも現在の日本人は日本での感染者数名という段階にもかかわらずこの話題に関して過剰に反応しているきらいがあり、これはつまり多くの日本人が日常に比べてウイルスへの共通の危機意識を持っていることを意味している。この「危機意識」「死への恐怖」が今までの権利に関する常識やイデオロギーを問い直すいい機会になるのではないかという話だ。
ウイルス流行前の一般観念(?)
「ウイルス流行前にこのような観念が一般的だった」と断ずることができるほど自分は長く生きてはいないが、少なくとも私は一般的に人々の権利の尊重、が世間では重視されていたように思われる。これは現代国家の人権意識を基礎としていると同時に、ホッブズの自然権観やロックの自己所有権論がフランス革命前から示唆していたように、人間の根本的な理性だったり人格性だったりに根差しているのだろう。実際これは最近流行のフェミニズムなど(SNSなどではやっているそれは人権擁護とみせかけて自ら女性の強みを生かしている「個性」を否定しているようではあるが。。。)に顕著に表れているといえる。また自民党が憲法改正案として掲げる緊急事態条項に対する本能的な嫌悪感もその権利観念を明確に表しているのではないだろうか。イデオロギー的な面でいえば、功利主義はある程度大衆の忌避感を誘っていると思われるし、実際自分もそう思っていた時期は長かった(だがこの忌避はそもそもの功利主義理論の本質を誤認したことによっている可能性もあるので、この事実だけから人々の人権観念を推定するのは安直である)。
「帰国邦人の受診拒否問題」について
では本題に移ろう。
https://www.sankeibiz.jp/macro/news/200130/mca2001301042008-n1.htm
私がこの文章を執筆した理由は上の記事が話題になっているからである。
ツイッターでトレンドになっていたため一連の反応を追ってみたところ、どうやら「法的拘束力がないから、コロナウイルスの感染を確かめる検査ができなかった」という安倍首相の対応には否定的な意見が多いようである。もちろん、「ツイッターをやっておりその話題に関するツイートをする人間」という母集団の下での意見であるため統計的な蓋然性には乏しいが、少なくとも「それなりの」人数が否定的であるという事実は考察の値する。
まず、この問題に対する模範的な回答を与えておくと、
法治国家である日本では法的拘束力がないことで人を拘束できないのは当然
だろう。
そして厳しい言葉で言うなら、このケースで多数の共通善を重視して個人の権利を侵害することを許す人は、もし過去に「最大多数の最大幸福よりもマイノリティー含めた個人の権利のほうが重要である」というような論理を展開していた場合、典型的なダブルスタンダードということで、論理的一貫性のないクズと言われても仕方がない。
ダブルスタンダードは悪か?
しかしここから「この問題に関して安倍首相を批判している人間はダブスタの間抜け野郎だ」と議論を終わらせてしまうのはいかにも芸がない。私に言わせれば人間はダブルスタンダードであることが普通なのである。なぜか?人間は常に相反する価値のトレードオフに面しているからである。
例えば「経済的自由」と「経済的平等」について考えてみよう。ただし、ここでは「経済的自由→市場の効率性→経済成長」というように演繹されるものとする。そしてA,Bの資産を下のようにしたとき、どの状態が望ましいか考えてほしい。
Case1. A:100万円 B:100万円
Case2. A:121万円 B:120万円
さて、どちらの状態が望ましいだろうか。
直観的にはCase2のほうが望ましそうだ、1万円の格差はあるものの、それは20万円の所得の上昇に比べるととるに足らないものだからだ。では、次のケースはどうだろう。
Case3. A:100万円 B:100万円
Case4. A:1000万円 B:101万円
直観的にはCase3のほうが明らかに望ましい。なぜなら1万円の所得の上昇は、900万円近い格差に比べたらとるに足らないものだからである。
ここで伝えたいのは、人は2つの基準(ここでいう自由vs平等)に関して、無意識に価値を天秤にかけ、ちょうど釣り合うところを理想の状態として置いている*1ということである。これはありきたりな主張ではあるが、最近の人はダブスタ=完全な論理破綻というように、過度に他者に対し論理的一貫性を求めているように思われてならない。*2
さらに、憲法における「二重の基準論」はまさに人格的自由と経済的自由のトレードオフの葛藤を体現している。
ではそもそも、人の理論・論理はどのように形作られるべきだろうか。その答えはロールズの「反省的均衡」にあると考える。簡単に言うと反省的均衡とは、自分の脳内で論理を演繹して結論を出し、現実・直観と見比べる。もし両者の間に齟齬があるなら、それらがうまく結合するように論理を修正したり、不適切な直観を改めたりする。というものである。もちろん論理と直観どちらを修正するかは本人のセンスに依存するわけだが。。。
では、「帰国邦人の受診拒否問題」をどうとらえるか。私の答えは、
無自覚のダブスタを現実的直観から自覚し、自分の今までのイデオロギーを修正する絶好の機会
である。情報化、細部の法制化、知的コミュニティーの分断化がすすんだ今日においては、今回のコロナウイルスの件のように重大なダブスタ、論理的欠陥に気づく機会に人々は恵まれていない。自分の功利主義観・権利感を問い直すチャンスなのである。
コロナウイルスの感染拡大を防ぐために一時的に法を破ることは妥当か
という議論に対し、私なりの現状の結論を与えてみる。もっとリアルに言うと
①日本人1000人を死なせないために法を破って一人の権利を侵害することは許されるか
という問いになる。この議論に変えてみると、強い理性を持った人間同士でも意見の衝突は免れないだろう。実際、これから述べる私の主張が何よりも正しいとは全く思わない。
①について考えるために、次の例も考えてみよう
②3人を死なせないために、3人殺しそうな精神病患者を隔離することは許されるか
これは①よりもさらに難しい問題である。病気と診断される点でコロナウイルスとこの精神病を明確に切り離す理由はない*3し、多対一という構図において①と②の間には連続性がある。
さらに重要なのは、①②が本人の過失によらないことである。武漢からの帰国者やサイコパスはややもするとあなただったかもしれない。
①と②は似ているとはいえ、②は直観的には許されないように思われる。そして実際に私の主張では①を許し②を許さないという結論を出せるものなので聞いてほしい。
私の主張は、
①②で権利侵害を行ったときに全体としての権利の総量がどの程度尊重されるか考える
というものである。これに基づいて①を見ると、一人を強制的に検査にかけることによる当人に対する権利の侵害は「⑴非常に小さく、かつ⑵非永続的である⑶恣意的でない」。一方で②における当人に対する権利の侵害は「⑴非常に大きく、かつ⑵永続的である⑶恣意的になりうる」。
そして①において権利の侵害を行ったとき、1000人は「死をもって自由を奪われることを免れたうえで、今後仮に自分が武漢に行って帰国するようなときにたいして権利侵害を受けない」。一方で②において権利の侵害を行ったとき、3人は「死をもって自由を奪われることは免れたが、今後精神異常者側になったときに自分が同様に強い権利侵害を受けるという可能性を内包しづづける」
ここで重要なのは、②における権利侵害は、被害者になるであろう3人に対しても結局、確率的だがそこそこの権利侵害を強いることになるのである*4。
加えて言うなら、個人による権利侵害は賠償責任によって(ある程度は)補償されるが、国家による権利侵害はそれ自体が正当化されるため、後者の権利侵害を重大なものだとみる理由がある。
以上が私の結論だが、ここで
A:権利を絶対視しすぎじゃないか?
B:功利主義的ではないか?(≒平等であるべきだ)
という批判にさらされることが予想できる。これについても議論してしまうときりがないため、簡明に答えておくなら私は「A:マッキー*5の権利基底的道徳に説得力を感じており」「B:権利概念は経済利益などに比べて個人間の衝突が少ない分、功利主義との親和性が高い。言い換えるならば、権利基底的道徳においては功利主義と平等主義がかなりの程度まで両立する」と思っている。
以上
*1:このCaseのような状況はそもそも現実では起こらない、という批判は重要である。しかし、この思考実験のそもそもの意図を問い直してほしい。ダブスタじゃなかったとしたら自由か平等どちらかを一貫した基準として選ぶことになるが、Case1234に関するあなたの規範的結論はその基準によってどうしても反直観的に導き出されてしまう。なぜなら、先に述べた「ちょうど釣り合うところ」と「極端なCase1234」の間には概念的な連続性があるからである。
*2:この意味で二元論的論争は不毛である。その二元論の要素を原子的に1つの概念に還元できれば可能であるが。
*3:うつ病は周りの人が軽視するのとは違って、自分ではどうしようもないれっきとした病気なのだという叫びを1度は聞いたことがあるだろう
*4:しかもそのような権利侵害にさらされるのは日本国民全員である
*5:幾人かの思想家の名を挙げたが未熟ゆえ個々の詳細な議論をする準備はできていない