理想について

備忘録

20210319

異性を好きになるということはどういうことだろうか。ポジティヴな感情で頭を埋め尽くすことなのだろうか。ネガティヴな感情を抑えることなのだろうか。ネガティヴな感情をポジティヴな感情で上書きすることなのだろうか。ネガティヴな感情を受け入れることなのだろうか。繋がりとはなんだろう。

 

恋とはなんだろう。

もう何もわからない。馬鹿な俺が勝手に付き合っただけだったのだろうか。好きだったのかもわからない。好きってなんでしょう。好きと嫌いが同一対象に共存するこの世界で、好きに意味はあるのでしょうか。もしかして「恋は盲目」というより「盲目が恋」なのでしょうか。

 

嫌いだった。僕に似ていたから。僕は僕の欺瞞を見破る能力に長けている。自分の嘘をすぐに見破ることができる。自分の嘘をすぐに見破ることができるから、自分の嘘をうまく隠すことができる。自分の中に自覚的に内在化された数多の欺瞞はやがて相手の欺瞞を見抜くレンズになる。「類は友を呼ぶ」とはよく言ったものである。そのせいで彼彼女の嘘がすぐわかる。人生のアドバイスなど意味がない。なぜならアドバイザー自身の人生を評価する行為でもあるから。自嘲など自尊心の表れでしかない。そう思っていたし、多分今もそう思っている。僕はまた嘘をつく。

 

そしてそれを喝破しても無意味なことも知っている。僕はプライドが高いから、そう思った。人に否定されたときにどんなに苦しいか。嘘で嘘を塗り固めてきた人間に引き返すことはできない。本能だから。この世界では、本能に従順な人間ほど理性を強め、本能に従順な人間ほど資本主義的成功を収める。彼は本能に従順だからこそ「良い人」だと言われる。あまりにも矛盾していて滑稽極まりない。

 

人を傷つけることが嫌いだった。それまで人を傷つけ続けてきたから。自分が傷つきたくなかったから。正確には、自分が傷つきたくなくなったから。耳にイヤホンをつけ、ありもしない虚構に身を委ね、現実にさよならする。

 

僕の教室のロッカーはいつだって汚かった。僕だけの世界だったから。誰も傷つかない世界だったから。ナンバーワンでもオンリーワンでもなんでもいいが、それ以外は心底どうでもよかった。

 

 

最初の話に戻ろう。恋とはなんだろう。わからない。あらゆる自分の繋がりがそこには詰まっている。家族が恋を作り、恋が家族を再定義する。友が恋を作り、恋が友を再定義する。恋が恋を作り、恋が恋を再定義する。同一の感情など存在し得ない。

 

あのとき、あれから、暇なときにお互いの顔を見ながら会話していれば、何かが変わっていたかもしれない。あのとき、ちゃんと繋がっていれば

もういっぱいあるけど

inspired by  "One Last Kiss" 宇多田ヒカル

宇多田ヒカル One Last Kiss 歌詞 - 歌ネット

                   

 

腐った月で身を清め

肉の為の水道水

聖なる黙示録神を焼く

オートミールチョコレート

疲れぬ娯楽は虚無を呼び

鉛のカレーライス

血のワインを流し込む

喪失を忘れて

再解釈 意味の付与

白夜の夜道を歩いて眠る

繋がりの確認 孤独の確認

 

今日の隠し味は はちみつレモン

いやワインでいいや

それが初めて

バーモントで充分。

 

もういっぱいあるけど

もひとつふやしましょ

 

いつかなくなるこのいつも

 

もういっぱいあるから

ひとつずつかえしたい

 

 

 

それでもやっぱりCan you give me...

よくばりなわたし

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太った海鼠

違和感。食道に住み着く例の海鼠は、私に一片の呼吸の余地しか与えない。

吐き気。嘔吐は決してないという確信は、一瞬の安寧と不快の永遠性を知らせる。

 

それは体の穴という穴から入ってきたミミズによって生まれた。口からも鼻からも耳からも目からも入ってきたミミズは、突然一点に集合する。それがいつ入ってきたのかも誰が持ち込んだのかも、分かるまいが、得体のしれないそれは確かに私の中にいる。無論それは生き物だ。繋がりから生まれ繋がりを産んでいく生き物だ。

 

無能。その間、私は私の全てを失うのだ。理性は理性であり続けながら感情を増幅させ、感情は我が物顔で理性を乗りこなす。「ついにこの日が」とばかりに。あらゆる経験は一つの経験のために抽象化され、一つの結果はあらゆる原因を導く。

 

睡眠という知恵は意味をなさない。視覚を閉じれば語感は触覚に再配分されるのだ。耐えられなくなった私は、海鼠のざらついた表面と喉奥との間に親指を差し込んで端っこを掴む。滑った海鼠に焦って指圧をかける。その膨張を嗚咽で感じとる。彼の痛みを感じながら、彼の体液を感じながら、彼の体温を感じながら、ようやく異物を取り出した。腫瘍を指先でつまみながら、排水溝に放り投げた。

 

えも言われぬ爽快感に襲われると、私は安心して一服し、床に着く。小汚いミミズが終始入り込んでいることも知らずに。

 

準備はできない。

世界

システム、結合

名を付ける。繋がりを与える。それを世界と呼ぶ。

 

芸術、それは世界。虚構ではない。

学問、それは世界。実在ではない。

俺の世界 美しい世界 芸術も学問もいらない世界

 

 

孤独な世界

 

僕の世界に君の世界

世界と世界、争いの原初。

 

歴史があまねく非存在に名を与え、トロイの名前が繋がりをばら撒く。

世界は他の世界を許さない。

私たちは隷従する。

 

チワワはチワワという名を手に入れ、その形を失う。

林檎は林檎という名を手に入れ、その味を失う。

ラベンダーはラベンダーという名を手に入れ、その匂いを失う。

モーツァルトモーツァルトという名を手に入れ、その音を失う。

海は海という名を手に入れ、その色を失う。

 

世界は世界という名を手に入れ、その世界を失う。

 

 

私は、私という名前を手に入れ、オレを失う。

 

名前はシステムを連れてきて、私を争いから開放する。

歴史がつれてきた私の世界

自由な世界

死を恐れ、痛みを恐れ、恐怖を恐れ、

私たちは繋がらないまま争い続ける。

 

 

私もあなたも 傷つかない世界

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コロナウイルスはダブスタをあぶり出す試金石

序論

 日本がコロナウイルスによるパンデミックに片足を突っ込んでいる今日、不謹慎ながら私は自由主義論争にかかわる重大な権利問題に取り組む絶好の機会であると考えている。もちろんこれは「感染が拡大すれば学問的に面白いのに」という話ではない。少なくとも現在の日本人は日本での感染者数名という段階にもかかわらずこの話題に関して過剰に反応しているきらいがあり、これはつまり多くの日本人が日常に比べてウイルスへの共通の危機意識を持っていることを意味している。この「危機意識」「死への恐怖」が今までの権利に関する常識やイデオロギーを問い直すいい機会になるのではないかという話だ。

ウイルス流行前の一般観念(?)

 「ウイルス流行前にこのような観念が一般的だった」と断ずることができるほど自分は長く生きてはいないが、少なくとも私は一般的に人々の権利の尊重、が世間では重視されていたように思われる。これは現代国家の人権意識を基礎としていると同時に、ホッブズ自然権観やロックの自己所有権論がフランス革命前から示唆していたように、人間の根本的な理性だったり人格性だったりに根差しているのだろう。実際これは最近流行のフェミニズムなど(SNSなどではやっているそれは人権擁護とみせかけて自ら女性の強みを生かしている「個性」を否定しているようではあるが。。。)に顕著に表れているといえる。また自民党憲法改正案として掲げる緊急事態条項に対する本能的な嫌悪感もその権利観念を明確に表しているのではないだろうか。イデオロギー的な面でいえば、功利主義はある程度大衆の忌避感を誘っていると思われるし、実際自分もそう思っていた時期は長かった(だがこの忌避はそもそもの功利主義理論の本質を誤認したことによっている可能性もあるので、この事実だけから人々の人権観念を推定するのは安直である)。

「帰国邦人の受診拒否問題」について

では本題に移ろう。

https://www.sankeibiz.jp/macro/news/200130/mca2001301042008-n1.htm

私がこの文章を執筆した理由は上の記事が話題になっているからである。

 ツイッターでトレンドになっていたため一連の反応を追ってみたところ、どうやら「法的拘束力がないから、コロナウイルスの感染を確かめる検査ができなかった」という安倍首相の対応には否定的な意見が多いようである。もちろん、「ツイッターをやっておりその話題に関するツイートをする人間」という母集団の下での意見であるため統計的な蓋然性には乏しいが、少なくとも「それなりの」人数が否定的であるという事実は考察の値する。

 

まず、この問題に対する模範的な回答を与えておくと、

法治国家である日本では法的拘束力がないことで人を拘束できないのは当然

だろう。

そして厳しい言葉で言うなら、このケースで多数の共通善を重視して個人の権利を侵害することを許す人は、もし過去に「最大多数の最大幸福よりもマイノリティー含めた個人の権利のほうが重要である」というような論理を展開していた場合、典型的なダブルスタンダードということで、論理的一貫性のないクズと言われても仕方がない。

ダブルスタンダードは悪か?

 しかしここから「この問題に関して安倍首相を批判している人間はダブスタの間抜け野郎だ」と議論を終わらせてしまうのはいかにも芸がない。私に言わせれば人間はダブルスタンダードであることが普通なのである。なぜか?人間は常に相反する価値のトレードオフに面しているからである。

例えば「経済的自由」と「経済的平等」について考えてみよう。ただし、ここでは「経済的自由→市場の効率性→経済成長」というように演繹されるものとする。そしてA,Bの資産を下のようにしたとき、どの状態が望ましいか考えてほしい。

Case1. A:100万円 B:100万円

Case2. A:121万円 B:120万円

さて、どちらの状態が望ましいだろうか。

直観的にはCase2のほうが望ましそうだ、1万円の格差はあるものの、それは20万円の所得の上昇に比べるととるに足らないものだからだ。では、次のケースはどうだろう。

Case3. A:100万円 B:100万円

Case4. A:1000万円 B:101万円

直観的にはCase3のほうが明らかに望ましい。なぜなら1万円の所得の上昇は、900万円近い格差に比べたらとるに足らないものだからである。

 ここで伝えたいのは、人は2つの基準(ここでいう自由vs平等)に関して、無意識に価値を天秤にかけ、ちょうど釣り合うところを理想の状態として置いている*1ということである。これはありきたりな主張ではあるが、最近の人はダブスタ=完全な論理破綻というように、過度に他者に対し論理的一貫性を求めているように思われてならない。*2

 さらに、憲法における「二重の基準論」はまさに人格的自由と経済的自由のトレードオフの葛藤を体現している。

 ではそもそも、人の理論・論理はどのように形作られるべきだろうか。その答えはロールズの「反省的均衡」にあると考える。簡単に言うと反省的均衡とは、自分の脳内で論理を演繹して結論を出し、現実・直観と見比べる。もし両者の間に齟齬があるなら、それらがうまく結合するように論理を修正したり、不適切な直観を改めたりする。というものである。もちろん論理と直観どちらを修正するかは本人のセンスに依存するわけだが。。。

 

では、「帰国邦人の受診拒否問題」をどうとらえるか。私の答えは、

無自覚のダブスタを現実的直観から自覚し、自分の今までのイデオロギーを修正する絶好の機会

である。情報化、細部の法制化、知的コミュニティーの分断化がすすんだ今日においては、今回のコロナウイルスの件のように重大なダブスタ、論理的欠陥に気づく機会に人々は恵まれていない。自分の功利主義観・権利感を問い直すチャンスなのである。

コロナウイルスの感染拡大を防ぐために一時的に法を破ることは妥当か

という議論に対し、私なりの現状の結論を与えてみる。もっとリアルに言うと

①日本人1000人を死なせないために法を破って一人の権利を侵害することは許されるか

という問いになる。この議論に変えてみると、強い理性を持った人間同士でも意見の衝突は免れないだろう。実際、これから述べる私の主張が何よりも正しいとは全く思わない。

①について考えるために、次の例も考えてみよう

②3人を死なせないために、3人殺しそうな精神病患者を隔離することは許されるか

これは①よりもさらに難しい問題である。病気と診断される点でコロナウイルスとこの精神病を明確に切り離す理由はない*3し、多対一という構図において①と②の間には連続性がある。

さらに重要なのは、①②が本人の過失によらないことである。武漢からの帰国者やサイコパスはややもするとあなただったかもしれない。

 

 ①と②は似ているとはいえ、②は直観的には許されないように思われる。そして実際に私の主張では①を許し②を許さないという結論を出せるものなので聞いてほしい。

私の主張は、

①②で権利侵害を行ったときに全体としての権利の総量がどの程度尊重されるか考える

というものである。これに基づいて①を見ると、一人を強制的に検査にかけることによる当人に対する権利の侵害は「⑴非常に小さく、かつ⑵非永続的である⑶恣意的でない」。一方で②における当人に対する権利の侵害は「⑴非常に大きく、かつ⑵永続的である⑶恣意的になりうる」。

 そして①において権利の侵害を行ったとき、1000人は「死をもって自由を奪われることを免れたうえで、今後仮に自分が武漢に行って帰国するようなときにたいして権利侵害を受けない」。一方で②において権利の侵害を行ったとき、3人は「死をもって自由を奪われることは免れた、今後精神異常者側になったときに自分が同様に強い権利侵害を受けるという可能性を内包しづづける」

 ここで重要なのは、②における権利侵害は、被害者になるであろう3人に対しても結局、確率的だがそこそこの権利侵害を強いることになるのである*4

 加えて言うなら、個人による権利侵害は賠償責任によって(ある程度は)補償されるが、国家による権利侵害はそれ自体が正当化されるため、後者の権利侵害を重大なものだとみる理由がある。

 

以上が私の結論だが、ここで

A:権利を絶対視しすぎじゃないか?

B:功利主義的ではないか?(≒平等であるべきだ)

という批判にさらされることが予想できる。これについても議論してしまうときりがないため、簡明に答えておくなら私は「A:マッキー*5の権利基底的道徳に説得力を感じており」「B:権利概念は経済利益などに比べて個人間の衝突が少ない分、功利主義との親和性が高い。言い換えるならば、権利基底的道徳においては功利主義と平等主義がかなりの程度まで両立する」と思っている。

 

以上

 

*1:このCaseのような状況はそもそも現実では起こらない、という批判は重要である。しかし、この思考実験のそもそもの意図を問い直してほしい。ダブスタじゃなかったとしたら自由か平等どちらかを一貫した基準として選ぶことになるが、Case1234に関するあなたの規範的結論はその基準によってどうしても反直観的に導き出されてしまう。なぜなら、先に述べた「ちょうど釣り合うところ」と「極端なCase1234」の間には概念的な連続性があるからである。

*2:この意味で二元論的論争は不毛である。その二元論の要素を原子的に1つの概念に還元できれば可能であるが。

*3:うつ病は周りの人が軽視するのとは違って、自分ではどうしようもないれっきとした病気なのだという叫びを1度は聞いたことがあるだろう

*4:しかもそのような権利侵害にさらされるのは日本国民全員である

*5:幾人かの思想家の名を挙げたが未熟ゆえ個々の詳細な議論をする準備はできていない

『進撃の巨人』最終話までの道程考察

進撃の巨人』 今後の展開

下書きが全消しされてガン萎えしたので文章は雑、推敲はなし、根拠はかなり省略して書いている。もっと言うと自分の考察を残したいという意図、そしてあわよくば的中を自慢しようという思いで書いているので人に見てもらうというという思考が欠落している。基本的に自分が記憶する限りの伏線や不可解な点をすべて回収できるように妄想した。

私はディストピアっぽいけど救済の余地がかなりある的エンドで筋道だてたが、皆さんはどう思うだろうか。

また巻数的にも数字的にも130話で終わりそう。以下の予想はそれにぎりぎり収まる形になっている。

 

この考察は123話までをもとにしている(2019/12/01完成)

単行本勢ならこの考察は過去編までで読むのをやめるべきだろう。

 

 

 

 

今後の展開【過去編】

歴0年

クリスタ=レンズが大地の悪魔(=ユミルが落ちた巨大樹の中の水の中のハルキゲニアみたいなやつ)に接触、ユミルの民とは違う独自の起源で「道」を辿るようになる。

クリスタは優しい人物で、多くの人から愛される人間だった。

 

それによりクリスタは巨体化せずして巨人の力を引き出せた。エルディアでは民族浄化が続いていたため、クリスタはそれに対し一石を投じる存在として巨人を倒し続けることになる。

そしてクリスタは始祖の巨人保有者であるフリッツ王に接触するが、敗北。フリッツ王から慈悲を受けただけでなく彼が実は平和を希求する思想を持っていたことに気づき、以降彼女の子孫はフリッツ王家に下ることになる(→ケニー=アッカーマンとウーリ=レイスの関係性とのアナロジー)。そのクリスタの子孫がアッカーマン一族とであり、彼らは巨体化せずして巨人の力を引き出す&一族の戦闘経験を道を介して得られる。

 

もう一人、クリスタとともに大地の悪魔に接触した人物がおり、その名はエレン=XXX。クリスタの恋人であり、1話の「行ってらっしゃい、エレン」はクリスタが発言したもの。

クリスタと違いエレンは始祖の巨人とは独立して進撃の巨人を行使するようになり、クリスタとともに巨人を駆逐しようとするが、先述したようにクリスタはフリッツ王家に下る。エレンは引き留めようとするがクリスタの説得を受け断念。クリスタが信じる王家を信じることにするが、王家の独善によって破滅的事態が起ころうとしたときにそれを止める存在として進撃の巨人を継承する。同時に「エレン」という名前も自然に(=伝承を経ずして)継承=転生されるようになり、彼らは先天的に自由を追う人間に生まれるのである。

歴740年あたり

カール=フリッツは幼少時代戦争の悲惨さを目の当たりにし、王になったときには戦争を終わらせることを決意、アッカーマン一族であるへ―ロス、タイバー家に協力を求める。世界から巨人を消滅させるためには2つ条件がいる。1つは現存する巨人を滅ぼすこと、もう1つは諸悪の根源である大地の悪魔を抹消し、今後巨人が一切生まれないようにすることである。

 

前者の役割を担おうとしたのがカール=フリッツであるのだが、タイバー家に騙されることになる。タイバー家はマーレと結託しており、フリッツはタイバー家の口車に乗せられて始祖の巨人継承直後に不戦の契りを結んでしまうのだ。

その結果として巨人大戦が勃発、騙されたフリッツ王はエルディア人を罪深い民族だと実感し、せめてもと戦争に使われている巨人を引き連れて一部のエルディア人と海を渡る。

 

一方そのころへ―ロスは道の記憶を頼りに大地の悪魔(ハルキゲニア)の元へ到達、ハルキゲニアを破壊しようとするが、水中にある大地の悪魔にピンポイントで到達できるはずもなく、断念。フリッツ王の元へ戻るも、戦況は既にマーレとタイバー家にあり、監禁されることになる。巨人を圧倒できるへ―ロスはかなりの脅威であったため殺害しようとするが、ヘーロスは民衆の人気もあったため容易に殺すことはできず「大地の悪魔を倒したという欺瞞の名声とヘーロスという名前を別のマーレ人に渡し」、「フリッツ王とともにパラディ島へ去ること」を条件に解放される。そしてヘーロスはフリッツ王とともにパラディ島へ渡る。

 

人間の醜さに辟易していたフリッツ王とヘーロスはパラディ島に楽園を築くという共通の見解を持っていた。しかしパラディ島には別の先住民族がいたことが発覚する。フリッツ王は楽園を築くために先住民族を駆逐しようとするがヘーロスは「当の人命に興味がない」思想に反対し(リヴァイの考え方とのアナロジー)、フリッツ王と決別する。フリッツ王は連れてきた巨人らを使って先住民族を滅ぼし、その巨人らは超巨大化して三重の壁を築き、エルディア人らは記憶を改ざんされることになる。(ウトガルド城は先住民族の名残、巨大樹の森はヘーロスが大地の悪魔を探した時に持ち帰ってきた植物によるもの)

 

補足:ヒィズル国将軍家の子息はちょうど植民地、資源を求めてパラディ島を探索しており、懇意にしていたフリッツ王に対してパラディ島に来ることを提案した人間である。彼は巨人の襲来によりパラディ島に閉じ込められることになるのだが。彼の子孫がミカサ。

 

数十年前

「エレン」の転生の延長線上としてエレン=クルーガーの過去が登場する。彼は赤子継承で進撃の巨人を継承する。おそらく赤子継承は巨人の能力を初めて使った時から13年間生きれる仕様なのだろう(13歳で死ぬのは不自然)

 

 

 

以上が歴0年と歴740年周辺の出来事の展開予想である。

 

 

 

ーーーーーー123話までの情報をもとにしているのでネタバレ注意ーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

今後の展開【未来編】

エレン=イェーガーは宣言通り超大型巨人軍団を海へと向かわせる。

ミカサはエレンを止めることを決意(123話の後悔から)するが、当然エレンの元まで行くための物理的障害が多すぎるため、苦戦。そこでライナーやファルコ、104期生が、ミカサがエレンの元まで行けるように補佐する。ライナーはその過程で死亡するが、死ぬ間際には自分を許して生きる意味を見出し、死を拒みながら美しく死ぬ。

このようにミカサは何とかエレンの元まで到達できるわけだが、エレンはそれまでに大陸に到達してしまい、かなり虐殺している。

ミカサはエレンに、大地の悪魔発祥の地あたりで追いつき、エレンを始祖の巨人から抉り出すことに成功。地ならしをしていた超大型巨人らは動きを止める。

ミカサとエレンは大地の悪魔発祥の水の中に水没し、精神世界に突入する。

その精神世界とは過去。エレン&ジークのように過去を転々と旅する。そこで上で述べたような過去を見て真実を知る。そして過去の一部に干渉する。

ここで注意しておきたいのは「現在は変わらない」ということ。なぜなら、121話での過去干渉で現在と違う世界線から実際の世界線へと軌道修正されていたからである。すなわち、ドラえもんみたいな感じで過去干渉して体が消えかけたり巨人が消えたりといった現在の修正は行われない。あくまで現在は変わらないため、どこで干渉されるかはそこまで重要ではなく、真の過去を見ることとエレンとミカサが過去を冷静に見つめなおすことが重要。

一応(細かい伏線から)予想される過去干渉は以下の通り

①エレンがミカサを助けるシーン

②エレンが大岩でトロスト区の門をふさぐシーン

③エレンがダイナ巨人と接触するシーン

以上3つを挙げた根拠は、これらがいわゆる進撃の巨人ループ説の証拠ではないかとささやかれているからである。私はループ説はないと思っているが、これらのシーンは私が予想する展開でもつじつまが合う。

が、このような過去干渉は冗長にも思えるためない気もする。

そして真の過去を見ることで大地の悪魔を消滅させねばならないと認識する。

またその過程でカルラの「生まれてきただけでもう偉い」発言を聞き、またミカサから異性としての愛情を伝えられ、エレンは「自由の奴隷」から解放される(押しつけがましいジークとの対比=ミカサはジークと違ってエレンを変えられる

自由の奴隷とは自己矛盾的だが、エレンの行う「自由を阻む他人をすべて駆逐する」という行為は自由を少々誤認している。人間は本質的に身体能力に大差がないことを考えると、他者の自由を尊重しなければ自分は一生自由であるために戦い続けねばならないからである(参考:Hobbes)

精神世界でミカサはユミルを殺し、解放する(今後ユミルによっては巨人は作られない)

現在に戻る。

巨人による負の連鎖は大地の悪魔をどうにかせねば解消されない。エレンは引き連れてきた超大型巨人を大地の悪魔発祥の地まで終結させ、そこ周辺の大地、湖を埋め尽くして硬質化させる(=封印)。巨人の力は永遠に失われる。

飛行船でアルミン(とコニーとジャン)がエレンとミカサのところまで来る(この時エレーンと叫ぶ笑)

エレンは世界を半壊させてしまったことの後悔を口にする。

その後悔しているところにハンジとともにリヴァイが登場、エレンを蹴り倒しながら

リヴァイ「ここまで好き勝手にやったんだ、お前の判断でな。後悔なんてないだろ。」

リヴァイはエルヴィンに思いを馳せる。

シャーディス教官はエレンを見て、エレンとグリシャ、そして自分自身について何らかの結論を出す。

ハンジ「まあ巨人の世界も終わったんだしこれでいいんじゃない?もう巨人の研究ができないのは残念だけどねー。それに、、、」

出産を果たしたヒストリアが現れる、ヒストリアはエレンに感謝の意を伝える。

エレンミカサアルミンの多少の談笑。

ヒストリアの子供を抱えて、「お前は自由だ」

END

 

個人的には、エピローグ的なのはあまり長くないと推測する。つまり、この後世界がどうなったか、エレンは今後どうするのか、というのはあまり明らかにされないと思われる。一つあるとすれば闇落ち(←という言葉はあまり適切でないが)エレンを倒したシーンを目撃されたミカサが求心力のある存在として新世界を指揮することになるかもしれない。クリスタ=レンズの子孫であり記憶の番人的なポジションも同時にとれる、さらにはヒィズル国将軍家の末裔のため、意外と濃厚か。

 

他キャラについての注釈

ジーク:13年の寿命がちょうど到来し死亡(父親との確執が解けたため割と安らかに)

アニ:実はアニの父親はマーレの飛行船に乗っており(←アニの生存に執着していたため)、結晶化がユミルの消滅で溶けて父親と再会しているような描写がそれとなく描かれる。

 

では、表紙の謎は?

表紙の謎は「この進撃の巨人という巨大なストーリーにも、一歩間違えれば別の展開があったかもしれない」というメッセージ性で説明できる。123話では事実ミカサが現在の世界線に後悔する描写があった。この表紙のおかげで我々はその表紙の世界について想像を膨らませることができる。

 

 おそらくこれですべての伏線が説明されているはずである。これでも解決されない伏線に心当たりがあったら教えてほしい。

 

補足;この考察の弱点:

この展開予想はアルミンについての考察が甘い。これが致命的になミスとなる懸念は極めて大きいが、私の実力不足だ。諌山先生はアルミンにどのような着地点を与えるのだろうか。。。

 

また、この展開予想で進撃の巨人についてはもう筆を起きたいが、

エレンらに対して見劣りするライナーの株を極限まで上げた状態でライナーを死なせてあげたいので、ライナーに関して何か書くかもしれない。

 

 

ーーーーーー以下、五等分の花嫁の結末予想ーーーーー

 112話時点

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

風太郎は一旦一花を選ぶ。しかしそれは勘違いだと聡い一花はわかっており、ビンタをぶちかまし風太郎の真の恋心を自覚させる

五月エンド!!!!!!!!!!!w

【大学数学】第一回 ルベーグ積分狩り講座 -Lebesgue積分のアイデア-

本記事では多くの数学徒が苦戦する(と思われる)ルベーグ積分について解説する。

本講座は一貫して伊藤清三『ルベーグ積分入門』に準拠している。

【本記事の概略】

ルベーグ積分のコンセプトの説明とリーマン積分との比較だけ行う。

測度論についての具体的な記述は行わない。

【前提知識】

  • (必須)高校過程における積分
  • 集合・位相論

【高校までの積分(Riemann積分)とその弱点】

そもそも、高校数学ではどのような積分を行っていただろうか、それはRiemann(リーマン)積分と呼ばれるもので、簡明に表現すると

 \lim _{n\rightarrow \infty }\sum ^{n-1}_{i=0}f\left( a+\dfrac {b-a}{n}k\right) \cdot \dfrac {b-a}{n}

で、これを

 \int ^{b}_{a}f\left( x\right) dx

と表記するのであった。

つまり、下のように求めたい面積をx軸に沿ってn分割し、i番目の長方形の面積を f\left( a+\dfrac {b-a}{n}i\right) \cdot \dfrac {b-a}{n}と計算する。そして各々の長方形の面積をn-1個全て足し上げよう。あとはn→∞とすることでグラフとx軸で囲まれた面積に限りなく接近できるという要領である。

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こうして積分記号を眺めてみるとその妥当性には非常に驚かされるものがある。

 

では、これで積分できないような関数はどのようなものが考えられるだろうか。

一つの有名な例として、Dirichlet(ディリクレ)の関数が挙げられる。

 Dirichletの関数とは、

 \{ ^{f\left( x\right) =0\left( x\in \mbox{無理数}\right) }_{f\left( x\right) =1\left( x\in \mbox{有理数}\right) }

このような関数がRiemann積分できないということは直観的に明らかだろう。Dirichletの関数は本質的に非連続であるため、n分割してn-1個の長方形を作るという戦略が通用しないのである。

一般化して述べてしまうと誤解を招くので断定形は避けるが、とにかく非連続な関数においてはRiemann積分できないということが往々にしてあり得る。

これを解決する新たな積分が、Lebesgue(ルベーグ)積分なのだ。

【事前準備:単関数】

※集合・位相論に慣れ親しんでいない者は、以下で述べる集合(=E)はEuclid空間(xy平面)における区間(a,b]などの「数直線上の実数のセット」だと思って読んでほしい。

 

Lebesgue積分は初めに単関数なるものから定義される。ため、事前準備としてこの関数がいかなるものか説明しよう。

単関数とは、

 \{ ^{\chi _{A}\left( x\right) =1\left( x\in \mbox{Aのとき}\right) }_{\chi _{A}\left( x\right) =0\left( x\notin \mbox{A のとき}\right) }

とし、(上の関数を集合Aの定義関数という)

 f\left( x\right) =\sum ^{n}_{j=0}\alpha _{j}\chi _{Ej}\left( x\right)

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で表されるものである。

これを見て特に文系の方はゾッとするかもしれないがそんなに難しいことを言っている訳ではない。

日本語で説明すると単関数f(x)は、「xを代入したとき、それが集合Ejに含まれるならEjに対応する定数がアウトプットされる」関数である。

これをEuclid平面(xy平面)で表すと、階段状の関数になる。例えば集合Eを区間[1,10)として、そのときのαを5とすると、区間[1,10)におけるグラフはf(x)=5になる。

この部分がよくわからなければ次章の100円玉硬貨の例もあるので何となくで進んでも構わない。

【Lebesgue積分のアイデア

Lebesgue積分の簡単な定義づけ

では、このような単関数f(x)についてLebesgue積分を行おう。

Lebesgue積分

 \sum ^{n}_{j=1}\alpha _{j}\mu \left( E_{j}\right)

 という操作であり、

 \int _{E}f\left( x\right) d\mu \left( x\right)

というように表記される。

Riemann積分との違い

これを先に述べたRiemann積分の式と比較してほしい。

今回の積分対象が単関数であることを考えるとRiemann積分において無限回分割する必要はないということには容易に気付けるため、Riemann積分における極限操作を無視して2式を並べてみる。

 \sum ^{n-1}_{i=0}f\left( a+\dfrac {b-a}{n}k\right) \cdot \dfrac {b-a}{n}

 \sum ^{n}_{j=1}\alpha _{j}\mu \left( E_{j}\right)

先に示した図から、 f\left( a+\dfrac {b-a}{n}k\right)  と  \alpha _{j}が同じもの、すなわちxに何らかの値を代入したf(x)、すなわちアウトプットを示しているということに気づくだろう。

 

ではRiemann積分 \dfrac {b-a}{n}に対応するLebesgue積分 \mu \left( E_{j}\right)は何なのか。

Riemann積分の場合、 \dfrac {b-a}{n}は当然「長方形の横の長さ」と解釈されるが、Lebesgue積分の場合、 \mu \left( E_{j}\right)Lebesgue測度というものである。

Lebesgue測度とは端的に言えば「集合の大きさを測ったもの」である。

いきなり何を言い出すんだという話だが、一旦Euclid平面に落とし込むと、[1,10)の大きさμを9としたり、[0,1)の大きさを1としたりして、アウトプットがαとなるxがどのくらいあるか測ろうという話である。

10円玉、100円玉、500円玉の例

これではまだピンと来ないだろうと思われるので、別の例を挙げてみたい。

ここに10円玉が10枚、100円玉が4枚、500円玉が6枚あるとしよう。そして下図のように20人のa1,a2,・・・,a20さんに少ない金額から順に分配していくことを考えよう。

(下図のように単関数になることがわかる)

f:id:yamashitat:20190903192513j:plain

では、彼らの持つ硬貨の合計金額を考えるとき、あなたはどのように計算するのだろうか。

先に述べたように、Riemann積分の思想はn分割して全部足し合わせるというものだった。つまり、Riemann積分的に合計金額を求めると、10+10+10+10+...+500+500のように計算するのである。

次にLebesgue積分的に求めよう。先に述べた言葉を復唱すると、Lebesgue測度μとは「集合の大きさを測ったもの」である。ここで10円玉のLebesgue測度μは10枚、100円玉のμは4枚、500円玉のμは6枚、すなわち、10×10+100×4+500×6=3500というように計算するのだ。

Lebesgue積分の定義を日本語訳する

  \sum ^{n}_{j=1}\alpha _{j}\mu \left( E_{j}\right)

これをふまえ、上の定義を見直そう。

ここで行っている操作は、「アウトプットがαjとなるx全ての集合がどのくらいの大きさあるかを測り、その(アウトプット)×(集合の大きさ)をすべてのアウトプットについて足し上げる」ということである。

Dirichletの関数は積分できるようになったか

ここでDirichletの関数を見返してみると典型的な(?)単関数であることがわかる。つまり、変域内での有理数集合の「大きさμ(A)」と無理数集合の「大きさμ(B)」をそれぞれ数え、1×μ(A)+0×μ(B)とすればこれがLebesgue積分の値である。

集合概念の多用について

ここまで、「集合」という概念を多用して、いちいち高校数学までに扱うEuclid平面に落とし込むということをしてきた。これが読者を混乱させていることは容易に想像がつくが、これは積分概念が抽象的な領域に踏み込んでいるということである。

具体的には、積分をEuclid空間以外の空間で行うことができるようになる。高校数学慣れ親しんできた人にとってはEuclid空間以外の空間など聞いたこともないだろうが、とにかく、積分が(目で見てわかるような)幾何的な意味を脱出したということである。

 

【単関数から一般の関数へ】

ここまで来て、今のところ単関数しか積分できないじゃないかという反論が飛んできそうだ。しかし、少し考えれば単関数での積分は一般的な(正確には非負の)関数に帰着できることに気づくだろう。

簡単に説明すると、一般的な関数もアウトプットを無限種類に分類することによって単関数と同じように取り扱うことができる(この極限操作は後々扱う)。

 

 

以上。

この説明では測度の具体性に欠けるため、雲をつかむような気持ちになっているだろう。どうやって「集合の大きさ」を測るのかはまた別の記事で述べようと思う。

 

 

(補足1)

選択公理を用いることでルベーグ測度で測れない集合の存在が証明されているが、1970年に、選択公理を容認しなければR^nの部分集合はすべて可測だと示された。

 

(補足2)

Lebesgue積分への過度の期待はやめてほしい笑。なぜなら、Lebesgue積分にはRiemann積分のときのような解法のアルゴリズムがないからである。実際、LebesgueがLebesgue積分を世に出した時、数学界の反応はたいしたものではなかった。

とはいえ、抽象数学を学ぶのにLebesgue積分は避けては通れず、単純な積分が通用しない確率論にもLebesgue積分が大きく関わっている。

 

(補足3)

暇なら

  • 測度論がどのように構成されるか(Carathéodory外測度、完備化など)
  • Lebesgue積分がどのように構成されるか
  • Fubiniの定理
  • Lebesgue-Stieltjes積分

まではやる。